真っ黒い波を、私は何時間も眺めていた。
――真冬の海。
国道を走る車もなく、何度も繰り返される波の音に交じって、ザーザーという何かが転がる音に私は振り返る。
……スケーボー?
さっきまで人影などなかったはずなのに。
「チッ」
小さく舌打ちをして、私は波打ち際を歩きだす。踵から少し水が入って気持ちが悪い。
このまま、真っ直ぐあの波に向かって歩けば、私はきっと楽になれる。そう思った瞬間、音が鳴りやむ。
チラッと後ろを振り返ると、さっきまでのシルエットは、ガードレールから身を乗り出すように、こちらを見ているのが分かった。
やはり、白いコートにするんじゃなかった。
最近の私は、ずっとこの後悔に苛まれている。
あの時、ああすればこうすればと、消し去れぬ過ちが、ずんと重くのしかかってくる。
渡辺真理恵。これが私の名前。
平凡すぎるくらい、何もない毎日を過ごしていた。20歳の誕生日、少しだけお酒を飲んだ。煙草も堂々と吸って、くらくらしたところで、私は初めての男、彼に出会った。
きっと運命なんだ。とはしゃいだのも束の間、私は思いがけない崖っぷちを歩く羽目になるのも、この時はまだ知らなかった。
そう、あの時あんな誘いを聞かなければ良かったんだ。
誕生日を祝ってあげると言い出したのは、素子だった。会社に入社して出来た友人で、瞳が大きく、かわいらしい声の持ち主。一緒に歩いていると、男性が決まって、何人か声を掛けて来る。それを払いのけるのが地味な顔立ちの私の役割。その日も居酒屋で、隣りに居合わせた男性グループが、すぐに声を掛けて来た。
八重田素子の悪い癖は、誰にでも愛想が良い。
「うっそー」
ほらはじまったと、その奇声を聞きながら、私はマイルドセブンをバッグから取り出す。
「すっごい。私もブギボーやるんです」
「じゃあ、今度一緒にやろうよ」
はいはい。これで商談成立です。
素子のもう一つの悪い癖。男にだらしない。
いつの間にかべったりとくっつきあって、話が盛り上がり、私の窘めなど聞く耳を持たない。
何度も目の当たりにした光景。
決して、私には入り込めない。とその時まで思っていた。
「マリー、こんなところ、来たことがないでしょ」
待合のロビーで、素子がはしゃぐ。
「そんなことはないわよ」
と言うが、図星だった。
顔が次第に強張る。もう酔いなどなくなっていた。
「いっぱいだってさ、どうする?」
軽いノリでヒロトと名乗る自称サファー男が、日に焼けた手を振りながら戻って来た。
週末だからなと、ひょろりと背の高いタケオが呟く。
仕方がないなーと、腕組みをした素子がにやりと笑い、海でも行きますかとはしゃいだ声で言う。
「いいね」
ヒロトもタケオも、それに乗っかった。
「私は……」
腕時計をちらりと見る。終電にはまだ間に合う。
「帰るの?」
コクンと頷く私を見て、タケオは分かったとあっさりと言うと、オレ、ちょっと改札まで送って来るから待っててと、二人に手を軽く上げる。
大して格好良い男でもないのに、う、まずい。酔いが回っている。足が上手く歩けていない。何の気なしにタケオの腕が腰に回され、私の胸が高鳴る。
「今度、ゆっくり会わない?」
優しく微笑む、タケオに負けてしまう。
携帯の番号を交換してしまった。
電車の中で後悔をし始める。
こんな簡単でいいのか? 心の中の自分が問いかける。
いいのいいの。こうでもしないと、一生出会いなんかないんだから。ガラスに映る自分が答える。
恋など、一度もしたことがない。
憧れを抱くが、そこまでだ。
流れる街に浮かぶ、自分の顔。
地味な顔立ちに、自然とため息が出る。
顔で恋するんじゃないでしょと、その類の話になるとよく言われる言葉。それでも、同じヘアースタイルにしてもメイクをしても、どこか浮いてしまう自分。
携帯のディスプレイの名をじっと見つめる。
こんなはじまり方でも良いんじゃない。
心の中の自分が囁く。