初めての一人旅だった。
岡田は確かに存在している。
世界中を飛び回り、写真を撮り集めているのは、本当らしい。ブログにあげられた数々の写真の中に、あの天体写真も含まれていた。
言葉が通じない街で、どうやって岡田を見つけ出せばいいのか、正直分らない。がしかし、会いたい衝動は止められない。こんな気持ちになったのは、浩介と別れて以来、初めてのことだった。
「岡田さん」
確率からして、会えない方が高い私の賭けのような旅。
カメラを持った岡田が振り返り、目を大きくする。
そして、岡田のエスコートで、私はルルドの街を回り、なぜ彼が私の前に現れたのかを知る。
ペットボトルに汲み取った水を手に、岡田は堪えられなくなり、涙を落とし始めていた。
「俺、入院したことがあるんだ。そこで、戸部さんとは出逢った」
ポツリポツリ話す岡田の横で、私はじっと地面を見つめていた。
「戸部さんの病室から、漏れてくる死にたくないという泣き声、俺、聞いちゃって、居てもたってもいられなくて、自分が撮った写真を持って、行ったんだ。そしたら、夜中に泣いていた人とは思えないくらい、明るく振る舞ってくれて、見知らぬ俺にも、すぐに打ち解けてくれたんだ。その時だった。あんたの写真を見せられたのは。抗がん剤で、かなり辛かっただろうに、あんたの話をするときだけは、本当に嬉しそうにしていた。二人で行った場所や探した部屋のことも、その時に聞いたんだ」
「それで、あの部屋が分かったの?」
「半分はあてずっぽうだったけどな」
「戸部さん、どんどん悪くなっちゃって、時々お見舞いに来る女が、あんただと思って、俺、声を掛けたんだ。もっとずっとそばにいてやれよって。そしたらその女、涙をいっぱい零し、そうしたくてもそうできな事情があるんですって、逆に怒られちまったんだ。よく見ると写真の女じゃなくって、あん時は参った」
「麻衣子だ」
「たぶん、あの新婦だったと思う。自信はないがな。それを謝ろうと病室行くと、もう戸部さんは虫の息になっていて、それでも俺に言うんだよ。この治療がひと段落したら、ルルドの泉に行って、病気を治すって。もう喋んないでくれというのに、それから意識が混濁するようになって、もう話すのなんか無理だろうと思ってたけど、俺、どうしても戸部さんと話したくて、それから毎日病室に行ったんだ。不思議と俺が入って来るのが分かるみたいで、微笑んでくれて。衰弱しきっているはずなのに。その内に俺の退院が決まって、そのことを話しに行くと、俺の代わりに、ルルドへ行って来てくれって言うんだよ。水は持って帰られないだろうから、風を集めて来てくれって。小さく笑って、それをあんたに届けて欲しいって。俺はもうダメそうだから、あんたがいつまでも元気でいられるようにそうして欲しいって。ふざけんなって思ったよ。最愛の人が今にも死にそうなのに、一度も顔を見せない女のために、何言ってんだって」
「それでも俺、好きなんだ」
「戸部さんの気持ちが、理解できなかった。俺なら絶対に嫌だと思ったんだ。俺の顔を見て分かったんだろうな戸部さん。頼むって。俺の手を握って言うんだよ。ここまで愛されているのに、それに答えられない女を、そこまで思ってやることないだろうが。どこまで最低な女なんだよそいつって……。千奈子といると、温かい気持ちになれるんだ。そんな人に、こんな姿、見せられないよって。でも俺、納得がいかなくって、だってもう明日が来るか分からないんだぜ。そんなに思っているなら、会いたいって思うのが当然だろ。それをしないってことは、絶対に、女の方に非があるって思うじゃないか。だから俺、言っちまったんだ。そんな女のことなんて忘れて、自分のことだけ考えろって。そうだなって、戸部さん、寂しそうに笑って、千奈子も早く俺のことなんて忘れてくれればいいなって……。涙流してさ、幸せになって欲しいなって。それが、戸部さんの最後の言葉だった。その晩、戸部さんは静かに息を引き取っちまったんだ。謝ることも出来ずに一人で逝っちまった」
「そう、浩介は私が嫌いじゃなかったんだ」
涙で言葉を詰まらせて話す岡田を見上げ、私は精一杯の笑みを向ける。
「俺、あんたに謝らなければならないな。本当に許せなかったから、戸部さんとの約束を破っちまった」
「でも、あなたは私の元へ来た」
「あああれは本当に偶然だったんだ。あそこの式場のカメラマンと友達で、具合が悪いから一日だけ変わってくれって言われて、仕方なく。でも、あんたの顔を見かけた時、驚いたな。戸部さんから預かっていた写真があったから、何度も確認して、名簿にも目を通して確信したんだ。こんな偶然があるのかと疑ったけど、あんたの前の席が空席なのを良いことに、招待客のふりして近づいたんだ。半ば戸部さんのお弔いのつもりでな。最低な女にお仕置きをしてやるつもりだった」
「それで、私に執拗に付きまとったんですか?」
「ああその気にさせて、突き落としてやるつもりだった。何ならネットでさらし者にしてやってもいいって思ったのに」
言葉を詰まらせ、髪を掻き毟る岡田を私はじっと見つめる。
私は何も言わず、岡田に身を任すように寄りかかる。
「麻衣子が、浩介からの手紙を預かっていたんです。私、それ知らなくって、一度も封を切らないで捨てようとしたんです。最低な女なんです私。大事な友達を疑って、許せなくて、祝福を心からしてあげる気になれなかったんですあの日も。自分一人だけが悲劇のヒロインと思っていたんです。麻衣子に手紙の存在を聞かされても、ゴミ箱から拾い上げる勇気が持てずにいて、それなのにずっと気になって仕方がなかった。だって、浩介がどんな優しい言葉を綴ってくれても、もう私の元へは帰って来てはくれない。この寂しさは埋めてはくれない。だから私は、美しかった浩介との思い出に包まれて、このままでいいって。私は何もいらないって」
ルルドの街を赤く染めながら夕日が沈んで行くのを、二人でぼんやりと眺めていた。
私は、こうしながらも心のどこかで浩介を探してしまっている。おそらく誰とも付き合えなかったのは、そんな自分がいるのを知っていたから。
「こんな俺だけど、本気で一緒になって欲しい」
絞り出すように言う岡田に、私は首を横に振る。
「私は、浩介のこと忘れられないと思う。最後の最後まで、私を思ってくれていた浩介を裏切れない」
フーと息を前髪に吹きかけ、私の頬を両手で挟み、タコ入道と言ってケラケラと岡田が笑い出す。
浩介が、機嫌を損ねた私によくしたことだった。
驚きで瞳を揺らす私に、岡田は小さく笑ってみせる。
「そう言うと思った。チイは思い込みが激しいから、俺ずっと心配だったんだ」
「何を?」
「俺の死を知ったら、絶対に後を追いたくなっちゃうだろう?」
「そんなことないよ」
「……そっか。それなら良かった」
ポツリ呟く横顔は、浩介そのものだった。
「浩ちゃん、どうして私に本当のこと、教えてくれなかったの?」
「……どうしてかな。俺自身が、信じたくなかったのかもな」
「私は、どんな形でも、浩ちゃんのそばにずっといたかった」
「宣告されて、しばらく何も考えられなかったんだ。治療法もないって言われちまってさ。それでも頼んだんだ。一パーセントの可能性があるなら、何でもしてくださいって。待たせている人がいるから、死ぬわけにはいかないんですって。それなのに……。麻衣子さんにも悪いことしちゃったな。何度も足を運んで、本当のことを話させてくれってお願いされたのに。チイにずっと会いたかったのにな。チイの笑顔を壊してしまうのが、恐かったんだ俺。格好つけなければよかった」
「浩ちゃんのバカ。ずっとずっと好きだったんだから」
「こんなバカな俺のことなんて、さっさと忘れちまえ」
「そんなの無理だよ」
「俺、どうして病気になんてなっちまったんだろうな。こんなに誰かを好きになったの、初めてだったのにな。離れたくなかったな。もっともっとわがままになれば良かった。本当にバカだよな俺。こんなこと、気が付かなかないなんて……。チイ、お前には幸せになって欲しい。俺なら、いつでもお前の傍にいる。姿は見えないかもしれないけど、ルルドの風になって、お前を守ってやる。だから……」
言葉を詰まらせる浩介の顔を、私は見ることができなかった。
「……浩ちゃん」
ずっと前を向いたまま、頭の上に置かれた手のぬくもりが懐かしいものだった。
「ごめん。悲しい思いをさせて。こんな俺のことを、好きになってくれてありがとう」
そこに確かに浩介を感じられていた。
「うん」
「俺のことは怨んでも良いから、恋なんて出来ないなんて思うなよ。チイは笑っている顔が可愛いんだ。もう泣くなよ」
「泣かせたのは、あなたでしょ」
「ごめん」
「…………」
「もう大丈夫か?」
「うん」
「幸せになれよ」
「分かった」
私は大事なものを取り戻せたような気がする。
夕陽に溶けて行く後ろ姿。
何度も何度もその背に手を振り、次に会える日を約束をした遠い日。二度と会えなくなる日が来るなど思いもしなかった。だんだん小さくなるその背に、私は沢山のありがとうを言う。
一瞬立ち止ったその背は、すっと消えてなくなってしまった。
帰路に着いた私を、心配顔をした麻衣子が迎えに来てくれていた。
「彼は?」
その質問に、私は微笑む。
私は一つ思い出したことがある。
麻衣子はきちんと私に、何度も話そうとしていた。
私の心が、拒絶してしまっていたんだ。
空港に迎えに来てくれた麻衣子は、涙目で私を抱きしめる。
そして、やっと私は浩介からの手紙を読むことが出来た。
愛している。
一文だけの手紙。
またあの西日が当たる部屋で一人、浩介の思い出に包まれて私の毎日が始まる。それでも一つだけ、こんな私にも変化したことがある。
星空を見上げ、私は岡田の無事を思う。
埃をかぶっていた二人の写真は部屋の片隅で、新たな恋の始まりを見守っていてくれている。
岡田に、ルルドを二人で歩いた記憶はない。
翌日、ホテルでバッタリ会った私を見て、驚きの表情を見せていた。
嘘を吐けるような人じゃないことは、数か月間の付き合いだけど、分る。
「忘れなくてもいい。俺はそんなあんたに惚れたんだ。全部丸ごと愛してやる。戸部さんになんか負けないくらいの愛で」
空港のロビー。
真っ赤な顔をして言ってくれたその言葉を、私は信じてみようと思う。
あの時、そこには浩介が確かにいた。
私はもう大丈夫。
やっと動き出した時間。
あの夜、岡田が捕まえてくれた星を胸に、焦らずゆっくりゆっくり刻んで行こう。
いつまでも手を振っている岡田に、私は思いきり手を振り返す。
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