昼下りの街、ネクタイを緩め歩く。
どこをどうやって歩いて来たのか、まったく記憶がなかった。
歩いて来た道を振り返り、涙が込み上げてくる。
チイ、お前に、なんて話そう。
涙が止まらなかった。
これからだというのに。
未来がないこんな自分の傍に、いて欲しいなんて、言えない。
雑踏に身を置き、いろいろなこと、考えたんだ。
これからの戦いに、負ける気はないが、壮絶なものになるのは間違いはない。
チイに、そんな辛い思い、させてもいいものだろうか。
夕暮れて行く空。
街からあふれる音。
すれ違う人々。
無数に届けらた、チイ、お前からのメッセージ。
思い出すのは、二人で過ごした時間ばかり。
胸が苦しくなった。
――悩んで悩んで、俺は決めたんだ。
チイ、お前との待ち合わせ。
不意打ちのように合わせられた唇。
俺の心が揺らぐ。
どうしてなんだよ。どうして俺たち、別れなければならないんだよ。
やるせない思いが溢れそうになり、目を伏せる。
「浩ちゃん」
不安な顔を見せるお前を、どれほど抱きしめたかったか。誰か、嘘だって言って欲しい。幸せそうだから、少しいじわるしただけだよって、笑い飛ばして欲しい。もう明日が来ないかもしれないなんて、言えるはずないじゃないか。
「どうしたの? 浩ちゃん変だよ」
このままずっと一緒に居たい。居たいよチイ。
泣きたい気持ちを誤魔化すので、精一杯だった。
チイ、お前の顔をまともに見ることが出来ずに、俺は窓の景色に目を向ける。
呼吸を整え、俺からの最後のプレゼント、何も言わずに受け取って欲しい。
みるみる笑顔が凍り付いて、涙でいっぱいになった瞳が、俺の心を探るお前。
もう止してくれ。これ以上、話せばつい言ってしまいそうになるから。
俺は泣きそうになり、それを隠すように無理して笑う。
皮肉だな。ドビュッシーの美しい調べが流れる中で、こんな話をしなければならないなんて。
「酷い」
ゆがんだ俺の笑い顔を見て、店を飛び出して行くお前を、ただ茫然と見送るしか出来ないのが辛い。辛いよチイ。
「……ごめん」
俺にはこうする方法しか思い当らなくて、本当にごめん。
「考えすぎだよ」
そう言ってくれたお前の友達は、大粒の涙を俺とお前のために流してくれていた。
これからのお前を、俺の代わりに支えて欲しいと頼みに行ったあの日。
本当はあんなこと、お願いするつもりなんか、なかったんだ。
俺のことなんて、忘れてくれればと思ったんだ。だってそうだろう。冷たい石の下、俺は、泣いているお前に何にもしてあげられない。あげられないんだ。
それを話せば、チイ、お前は言うんだ。
そんなことないよって。無理して笑って、浩ちゃんのことなんてさっさと忘れて、好きな男、すぐに見つけちゃうんだから。そう言いながら、チイ、お前は涙ぐむ。そして、浩ちゃんは死なないよ。ずっと私の傍で生き続けるんだから。って、また笑うんだ。
俺、そんなチイ、お前の姿、見たくはない。
どんな治療だって耐えて見せる。
絶対に負けない。負けるつもりはないけど、俺が復活するまでチイ、お前には自由でいて欲しい。
心から、そう思ったんだ。
良いんだ。それで新しい恋が始まってしまったのなら、俺が悪いんだから。病気になんてなってしまった罪滅ぼしになる。精一杯の笑みで、チイのこと祝福するよ。泣き顔を、見るよりマシだからさ。
だから俺は嫌われることを選んだ。
本当のことを話して欲しいというチイの友達を見ているうち、俺、思いついたんだ。
一番信頼している者からの裏切り。
ただのサヨナラじゃ、チイ、お前はあきらめない。
そう言う奴なんだお前は。
どこまでもどこまでも、俺のこと、信じてくれている。
きっとやり直すために、無理をする。
でも仕方がないんだ。
明日から始まる戦いのためにも、チイのためにも、きっぱりここで終わらせなければならない。
最低だよな俺。自分のために、友達まで利用しちまうんだからな。
でも、これでいいんだ。こんな最低な男、忘れちまった方が良い。
チイのことだから、本当のことを話せば、自分のことをそっちのけで俺の面倒見てくれるのは分かっていたからね。
衰えて行く俺に、大丈夫だよって、チイ、お前はやっぱり、無理して笑うんだ。
本当は辛くて仕方がないのにね。
もしかしたら、逃げ出したくなるかもしれない。
それならそれでもいい。
だけど、そのことで、チイの心に芽生えてしまう罪悪感が、俺は怖かった。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
悔やんでも悔やみきれない。
ああ、ルルドは遠いなあ。
今は、この選択肢は間違っていなかったと思うよ。
母親さえ、顔を叛けたくなるこんな姿、チイ、お前に見せなくて良かった。
チイ、沢山、泣かせてしまってごめん。
一緒に居られなくてごめん。
約束、守れなくてごめん。
友達、奪ってしまってごめん。
ああ、謝ること、多すぎて辛いよ。
チイ、お前に出逢えて良かった。
幸せだったな。
こんな俺を好きになってくれて、ありがとう。
ああ。死にたくないな。
もう一度、チイに会いたいな。
ルルドは温かな風、吹いているのかな。
行きたかったな。
チイのためにも、奇跡、起こしたかった。
病気だった自分が嘘のように、元気になった姿を想像して、俺はふと笑いを溢す。
目の前に俺が現れたら、チイ、どんな顔をするのかな。
好きな人、もうできていて、迷惑な顔、されちゃうのかな。
それならそれでいいや。
チイが幸せなら。
ああ神様、願い事が一つだけあります。
彼女に、またあの笑顔が戻りますように。
一滴の涙が頬を伝う。
二度と届けられるはずのない思いを抱えたまま、深い深い眠りが俺を包む。
……ああやっとチイ、お前に会いに行ける。
……チイ、……愛している。